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自転車に乗るガヴァネス

2013年6月4日 3:17 PM

 読売新聞紙上で「魔風恋風」が大団円を迎えた翌月、遥かロンドンでは「ストランド」誌にて、コナン・ドイル「シャーロック・ホームズ」の読切短編連載がほぼ10年ぶりに再開される(その間には長編「パスカヴィルの犬」のみ発表されていた)。

 その第4作目が「一人きりの自転車乗り Solitary Cyclist」(邦題は東京図書版・ちくま文庫版より)。

 ヴァイオレット・スミス嬢は父の没後、サリー州のカラザース家に住み込み家庭教師の職を得る。毎週末には母の住むロンドンの実家へ戻るため、鉄道駅までの田舎道を自転車で走るが、背後をやはり自転車で追ってくる怪しい男が・・・。以下は原作を読またい。

 事件は研究家(シャーロキアン)によると1895年4月と推定される。当時の自転車界ではセーフティ型がオーディナリー型に代わり主流の座を奪って久しく、英国の自転車産業は成長期の真っ只中。1897年には英国内の完成車工場は833社。ミキスト型フレームの女性用自転車も生産されていた。「ストランド」掲載作のオリジナル挿画家シドニー・パジェットの画では、ヴァイオレット嬢の愛車はこのタイプか。彼女は英国版「はいからさん」である!?

 ホームズ譚では、住み込み女性家庭教師「ガヴァネス」は他にも「四つの署名」「ぶな屋敷」で印象的な女性として登場する。

ヴィクトリア朝時代、当時の中流家庭出身の子女の間ではガヴァネスが人気職業だった・・・と書きたいが、それはちょっと違うようだ。当時のイギリス市民社会的モラルでは、女性は結婚して夫に扶養されるべき存在で、独身女性は社会的に半人前と見なされ、職業に就いての自立は誇れるものではなかった。しかし大英帝国の全盛期、世界各地の植民地へビジネスチャンスや立身出世を求めて移住する男たちは数多く、それにより生じた男女人口比の不均衡や階級社会ゆえの階層アンバランスなどから良縁を得られない女性、いわゆる「余った女」が生じた。良家の子女は家庭の経済事情ゆえに就職せざるを得ないが、レディ(淑女)の道徳的建前として、生活のために額に汗して働く事は認められ難い。かろうじてガヴァネスは就いて体面上恥ずかしくない数少ない職種だったのだ。つまり「やむなく」というのが正直な求職動機だったようで、「報酬が第一の目的ではないのですよ」と自らを納得させて、求人広告欄をチェックし、紹介所を訪れたのではないか。

 当時の英国上中流階級では幼少期の児童を学校へ通わせず、自宅で教育することは珍しくなかった。だがガヴァネスの求人求職の需給バランスは買手市場だったから、雇用条件はガヴァネス側に不利。一方、それの資格などはなく、出身家柄や容姿(美人過ぎるのはダメ!)が採用理由に挙げられたから、プライドだけは高いが能力や職業意識の低いガヴァネスもいたようだ。英国階級社会の意識では召使・家政婦などより上位のつもりなのに、実際に住み込んだ家庭では家政婦的な仕事まで任される事は屈辱的。それゆえに雇先の家族とは確執が起こり、孤立する場合も少なくなく、現実とのギャップと孤独からストレスが溜まる立場。ドイルより時代はさかのぼるが、C.ブロンテ「ジェーン・エア」やサッカレー「虚栄の市」などから当時のガヴァネスの状況を読み取れるだろう。

 ヴァイオレット嬢が田舎道を急ぐ際、レディが乗るべき馬車ではなく、自分でペダルを踏んで進まねばならない自転車で駆ける姿は、矛盾と偽善を孕んだヴィクトリア朝時代のモラルや風潮の前に、自立を余儀なくせられた女性の不安な立場の寓意なのだ。背後から謎の男がやはり自転車で付かず離れずついてくる場面も、男性に翻弄される人生の隠喩的な光景ではないか。

それでもヴァイオレット嬢は、物語の結末では有望な電気技師と結婚し、後に社長夫人となるのだから、結局は「余った女」にならずに済んだ。その40年ほど前のジェーン・エアには自転車はなく、アンハッピーエンドで終わってしまうのだ。

なお、この翌月に発表された「プライオリ学校」にも自転車が大事な役どころで登場する。元重臣ホールダネス公爵の子息サルタイア卿とドイツ人教師が学寮から失踪。教師の自転車も無い。ホームズは荒野の地面に残ったダンロップタイヤとパーマータイヤのパターンを見分けてその痕跡を追い、教師の殴殺死体を発見する・・・。パジェットの挿画では、教師の愛車はブリティッシュ・ロードスターか。

ホームズ譚には馬車や列車が登場する場面が非常に多いが、自転車もまた当時の英国産業を代表する工業製品の一つであり、交通文明の一翼を担っていた。それは「日の沈まない国」の内幕を描いたこのシリーズにも反映している。

 

参考文献:

コナン・ドイル(ベアリング・グールド注釈、小池滋監訳):シャーロック・ホームズ全集。東京図書、1983

川本静子:ガヴァネス。みすず書房、2007

高橋裕子・高橋達史:ヴィクトリア朝万華鏡。新潮社、1993

自転車;機械の素。INAXブックレット、1988

 


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